中国三十三観音霊場(5)鳥取県


29, 大山寺



伯耆大山の山懐にあるこの寺へは大山登山の帰りによく立ち寄ったのだが、奥にある大神山神社との関係やその縁起を知ったのは今回観音霊場巡りをしてのことだった。
大山は山岳仏教の聖地であり、僧兵修業の場であったことは、登山道にある僧兵コースなどからもうかがえる。歴史上、僧兵が活躍したのは室町〜戦国時代で、多い時には3000人とのことだ。。船上山にたてこもった後醍醐天皇のもとにはせ参じた信濃坊源盛が有名。
寺務所で烏天狗のlお守りが売られていたのでちょっと聞いてみる。
寺の執事をされてる方が、天狗の研究をしているとかで、伯耆坊というからす天狗がいて、相模の大山まで空を飛んでいった話などをされ、
聞いていてもロマンのある楽しい話だった。

概要  創建:養老2年(718) 開山:金蓮上人(依道)  宗派:天台宗 
     本尊: 地蔵菩薩(本堂) 十一面観世音菩薩(観音堂)


山門 護摩堂(不動明王)・・・背景は大山
下山観音堂(十一面観世音) 本堂(地蔵菩薩)
阿弥陀三尊 阿弥陀堂 (弥陀三尊)


縁起
奈良時代養老年間(718)出雲の国玉造りの俊方(依道)に依って山が開かれる。
「選集抄」によると俊方がある日鹿を追って大山に入り、みごと鹿を射止めたが、それは鹿でなく地蔵尊であった。俊方は大いに殺生の罪ふかいことを悔いて出家し、名を金蓮と改め庵を結んで地蔵尊をまつったと書かれ、

又、鎌倉時代の作と伝えられる「大山寺縁起」によれば、猟師の依道 俊方と同人物か) が金色の狼を追って大山山中に入ると、地蔵尊が現れて猟師のつがえた矢を止め、狼は老尼の姿に変ったといい。尼僧にさとされた猟師は出家し、修行を積んで大山を開山したと伝えられている。その猟師こそ金蓮上人であったとされている。


歴史
●平安時代大山権現(地蔵権現)を大智明菩薩とするという詔がくだされ、
本尊を現在の大神山神社奥宮に祀り、大智明大権現というようになって神仏習合として明治初年までつづく。
●貞観8年
慈覚大師が顕密両教、引声阿弥陀経を伝え、 修験道から天台宗に列し、平安から室町にかけ、多くの社寺が立ち並んで栄えたという。
1171年火災に遭い、焦土と化すが、豪族、紀成盛によって再建され、地蔵菩薩などが寄進される。
室町時代、戦国時代には多くの僧兵を抱え強力な勢力を誇る。
●江戸時代、慶長年間、豪円僧正が座主となり、三千石の寺領を得、以後,宮家が代々の座主をつとめて繁栄する。
●明治時代には神仏分離によって本殿を神社に引き渡し、本尊を大日堂に移す。以後、再び火災にも遭うが
昭和26年になってようやく現在の本堂が完成する。

★観音堂:本尊は十一面観音菩薩。白鳳期の金銅仏で国の重要文化財に指定され、現在霊賓閣に安置されている。下山観音堂の本尊はその控仏。

★阿弥陀堂:創建は慈覚大師とされ、 「引声阿弥陀経」修礼の場として建立。仏師、良圓による丈六の木造阿弥陀如来(1131年)が安置される。お堂は約450年前の洪水で流出するが1552年、古木を使って再建、今に至る。








30, 長谷寺

山陰の要衝として栄えてきた倉吉の打吹山頂(標高208m)にはかつて打吹城があったという。その山麓は城下町の中心で城址を含むこの一帯は現在、打吹広園となっている。
中国30番観音霊場、長谷寺は山道を300mほど登った山腹にある。現在、寺周辺は修復工事中で、工事現場の階段づたいに山内に入る。寺がちかづくと読経が聞こえてくる。(実はテープの声ではあったが・・・)納経所で朱印をいただき、舞台づくりの観音堂へと進む。なんと荒廃した寺であろうかというのがその印象。本堂の中には多くの千社札が張り付けられ、多くの絵馬がかけられ、提灯がぶら下がり一種独特の古刹の雰囲気が漂う。

概要  創建:養老5年(721)  開山:法道上人  宗派:天台宗  本尊:十一面観世音菩薩(観音堂)


本堂
本堂内部
山内には石仏が多い。


縁起
開山は養老5年、元明天皇の勅願による法道上人で本尊に十一面観音を安置したと伝えられている。寺名は大和の初瀬に由来する。当時は七堂伽藍を構えていた。
歴史
時代の変遷と共に衰退、以後、源頼朝の命により寺運は再興されるが、1557年、豊臣秀吉との戦いで一帯は焦土と化す。唯一観音堂のみが焼け残り、慶長15年時の領主中村伊豆守寺の復興を図り、続いて松平相模守が祈願所として再生するが明治以降衰退の一途をたどった。

現在、再興を期して、修復のための寄付などを募っている。

★本堂内陣にある、十一面観音を納めた厨子は禅宗様を基調とした室町時代初期の建築物。
  鐘は江戸期の「伯耆民話記」によると水田から掘り出された室町時代の特徴を持つ梵鐘で、頂部の龍頭
  が蓮の花をかたどった座に直行するという古い作風を見せているということだ。






31, 三佛寺

31番札所、三佛寺の山内は、本堂や三つの宿坊のある山下と投入堂、及び多堂の建つ三徳山(標高900m)山上に分かれている。山上へは宿入橋より入山する。
この日、先ずは以前から登ってみたいと思っていた木の根や岩場をよじ登るという三徳山投入堂登山を経験。
高低差、200m、距離にして700m、登り40分という三徳山行者登山はわずかだが鎖場もある険しい道だけに達成感があり、かつ絶壁断崖の窪みに建つ投入堂を見上げた感動は圧巻だった。

国宝、投入堂「三佛寺奥院」は縁の下に伸びた長短さまざまな庇柱の構成、屋根のそり具合など、ただ、驚異的ということ以上に美しい建物であった。建築はその様式から平安時代後期のものとされているが、確実な資料はなく、役小角がその法力で建物ごと平地から投入れたのだという伝承が伝わっているというのもうなづける。堂の正面、側面いずれにも入口はなく、入堂は崖伝いに堂の床下を通り背面から這い上がるしかないのだそうで、特別の許可がない限り、一般の立ち入りは禁止である。
左手には格子をはさんでわずかに愛染堂も見える。

投入堂へは三佛寺本堂の裏手にある登山事務所での手続き後、朱の宿入橋より入山する。麓から鐘楼までは起伏にとんだ自然の山道なので非常に急峻。登りは三点確保でひたすらによじ登ったのだが、登り以上に危険とされる下りは、登山経験に助けられ、写真など写しながらののんびり下山となった。

概要 創建:慶雲3年(706)  開山:役の行者小角  宗派:天台宗  本尊:十一面観世音菩薩(観音堂)


三徳山投入堂


観音堂 納経堂
(実際の大きさは他の堂に比べうんと小さい)
鐘楼 地蔵堂
文殊堂 三佛寺本堂の屋根はるか上に地蔵堂を望む。

縁起
日本固有の山岳信仰に根ざす修験道、その開祖である役の小角が三枚のハスの花びらを散らし「仏教に縁のあるところに落ちるよう祈ったところ、その一枚が三徳山に落ち、この地を修験道の根本道場にしたというのが始まりとされている。
この自然崇拝の道場が開かれたのは706年のことであった。
歴史
849年、慈覚太子が堂塔を建立、阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来を安置し寺号を三徳山三佛寺とする。
鎌倉時代、頼朝より寺領三千石他、堂宇の寄進をうけ隆盛を誇るが乱世に入り衰退する。
足利時代には義満の外護もうけるが以後、」栄枯盛衰を繰り返しながら今に至る。

寺宝
投入堂は平安時代後期の懸造り建築で国宝。その本尊は金剛蔵王大権現(国重要文化財)
その他重文としては、十一面観音、文殊堂、地蔵堂、納経堂、銅鏡などがある。








摩尼寺

鳥取県の特別観音霊場、摩尼寺は鳥取砂丘から国道9号線を跨ぎ林道を深く入った山麓にある古刹。
参拝前に昼食をと入った源平茶屋でいただいた田楽や胡麻豆腐は自家製でとても美味。展望台へも登られるといいですよなど寺についていろいろ教えていただく。

境内は、山菜茶屋のある門前から急な石段を300段あまり登ったところにある。
杉木立に覆われた仁王門をくぐりさらに登ると青々した竹を背景に大らかなお顔の地蔵が見守るように立っていて、さわやかな気分にさせてくれる。登りきったところ、山門をくぐると目の前に立派な本堂(千徳殿)が現れる。中に丈六の四天王が安置されているそうだ。その右奥に大師堂と善光寺如来堂(摂取殿)いずれも立派な建物だ。
納経所の方に案内され、摂取殿奥にある亡き人によく似たお地蔵さんがあるという法界場へ。そこにはいろいろな表情のお地蔵さんが並んでいる。さらにその奥、岩盤を登り、展望所へと通じる山道を教えてくださる。とても親切で楽しい方だった。少し登ると、小さな観音堂があり極小さな千手観音の姿が認められる。そのそばにも数体の石仏。さらに登るとやがて、開け、日本海が見事に広がって見える展望所に至る。
時間の都合で断念したが山頂、奥の院には帝釈天が出現したと伝わる霊跡などの遺跡があるそうだ。

概要  創建:承和年間(834)  開山:慈覚大師  宗派:天台宗  本尊: 千手観世音菩薩 帝釈天王


石段途中の大らかなお顔の石仏


仁王門 (1594年) 本堂
大師堂と善光寺如来堂(摂取殿)

縁起 創建は834年、慈覚大師円仁で、この山容に感じ入り伽藍を建立したといわれる。
また、一方、帝釈天出現霊場とされ、尊ばれている。
その昔、湖山長者の娘が帝釈天に化身し「今日より後はこの峰に鎮座し長く仏法を護り、普く衆生を能化せん」と告げたと伝えられている。

山陰からの善光寺詣では至難のことであった事から勧進し建てられたのが善光寺如来堂である。
仁王門は桃山時代のものだが、その他の堂宇は近年の再建。



展望所から望む日本海

島根半島、白兎海岸、鳥取市街、、飛行場、鳥取砂丘、砂丘海岸のラッキョウ畑などが見渡せる












32、観音院

観音院は太閤ヶ原、本陣山などが連なる鳥取市東部の丘陵地の山裾にある天台宗の寺。詳しくは、補陀落山 慈眼寺 観音院と号する。本尊は聖観世音菩薩。境内にある林泉庭園は江戸時代初期を代表する名園、観音院庭園として広く知られるているという。
その庭園を拝観するべく受付で500円也の拝観料を納めて、書院に案内される。
坐して眺める庭園である。中央に池があり、亀島をはじめとする石組と植え込み。その背景に芝で覆われたなだらかな築山と滝なども配されゆったりとした風情。池にはスイレンが咲き、ミソハギがほとりをピンクに染めていた。
出された御抹茶とお菓子を頂いた後、庭に出てみる。山側から見下ろす堂宇もなかなかいい。
庭の一隅にキリシタン灯篭があり、これも庭園と共に寺の寺宝とされている。
本堂に通称「出世観音」と呼ばれる聖観音菩薩像に手を合わせ、寺を後にした。

概要  創建:寛永9年(1632)  開山:宣伝法師  宗派:天台宗  本尊: 聖観世音菩薩(出世観音)
     阿弥陀如来

山門

本堂


縁起
観音伝・・・1600年代初め城山の岩窟で霊光を放つ聖観音菩薩像が現れ、ただちに城内に安置。なおも霊光を放つので近くの栗谷の観音寺に移し、さらに当地に移ってからは藩の祈願所となった寺で「御城下お守り観音」と称せられた。安置される壇が移るたびに大きな寺の本尊となるというので出世観音といわれている。

寺は1630年代前半、僧宣伝により雲京山観音院の号で栗谷に開創、1639年(寛永16年)頃に現在地に移り現在の号に改めたとされている。 以降、旧鳥取藩主池田家の祈願所八ケ寺(1709年指定)の一つとして栄えた。
庭は1650年(慶安3年)から10年を費やして作庭されたとされる傾斜地形を生かした京都風蓬莱様式の池泉鑑賞式日本庭園である。借景とする源太夫山山麓の一部も含めて国の名勝に指定されている。




庭園

                                                 書院からの庭園

築山から見下ろした堂宇 キリシタン灯籠










33、大雲院

特に山門があるわけでもなく、市内の交番の隣にその寺はあった。
本堂、元三大師堂、が並び、広場の真ん中あたりに鐘楼があるという開放的な感じの寺であった。ちょうど入れ違いに本堂から出てこられた遍路の方に「今なら本堂が開いてますよ」と教えられ急いで堂内に入る。

外観からは想像できない見事な内陣であった。
撮影禁止だったが目をみはるばかりの仏像群である。本尊、阿弥陀三尊を中心にして、西国三十三ヵ所の観音像(レプリカ)が取り囲んでいるのだ。そしてこちらのご本尊である柔和な表情の千手観世音菩薩が安置されている。
その様は誠に圧巻であった。
西国三十三の観音様はほとんどが秘仏で開帳の時期以外は拝見できないわけだが、レプリカとはいえこのように一堂に会しているとは何んとも見事である。その足元には各寺の
砂がおかれその上を歩いて巡るようになっている。
穏やかな感じの寺の奥さま(多分)によると先代住職が西国を巡って集められた砂だそうである。

概要 創建:慶安3年(1650)  開山:実成院公侃  宗派:天台宗   本尊: 千手観世音菩薩
     阿弥陀如来

本堂 鐘楼

寺歴
慶安3年(1650)藩主池田光仲19歳の年、鳥取に東照宮を歓請、その祭礼を司る寺として建立された。
当初は乾向山東隆寺淳光院と称して徳川将軍位牌安置所として藩主祈願所の役割を持つ。
寺領五百石の大寺院として因伯二州の頂点であったが、神仏分離により明治3年、当地に移り、鳥取大震災で堂宇崩壊、仏像も失われる。さらに農地解放で寺院収入の道が断たれ衰退していった。
本堂は1717年末寺の霊光院本堂として建てられ明治3年に大雲院に吸収合併された。






途中立ち寄り・・・・・大山・中海・倉吉・三朝・鳥取砂丘・浦富海岸 鳥取市内