〜庭瀬から備前一宮へ〜
2月5日
山陽本線庭瀬駅を起点に、
室町時代末 、備前からの侵攻に備え築城された庭瀬、撫川の城跡を回り
犬養木堂生家を訪ね、さらに、吉備の中山を越え吉備津彦神社、備前一宮駅までの約10キロを歩いた。
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庭瀬城跡 |
撫川城跡 |
このあたり一帯は泥沼地のため、ともに自然石の石垣がめぐらされた典型的な沼城で
非常に難工事だったようだ。今も周りは泥の堀がそのままのこっている。
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大賀ハスの栽培(庭瀬城跡)
2000年前の古蓮実から発芽に成功した大賀一郎博士はこの地域の出身だそうだ。 |
庭瀬はこの二つの城の城下町が町を形成して栄え、その街中を
岡山藩と支藩を結ぶ鴨方往来が通っていた。そのなごりか町には古いなまこ壁の家や
寺社も多い。町の一角で古い道標を見つけた。

国道2号を渡り暫く田の中を行く。

ケリが・・・
近づくと飛び立った。白黒の羽が目立つ。(↑マウス)

犬養毅(木堂)生家・・・昭和51年解体修理されたもので
1700年代初めの大庄屋だった当時の姿に復元されているという。
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意匠がおもしろい |
つるべ井戸のある庭をぬけると西隣にH5年開館の記念館がある。
中には木堂の足跡が展示されている。
なかでも、内では経済不況、外では近隣諸国との難局に立ち向かった当時の演説
を聞くことができる。5、15事件によって政党政治に終止符が打たれ、軍部の進出が決定的となった
まさにその前夜のことだと思ってしみじみ76歳とも思えない張りのある声に聞き入った。
外に出るとぱっと目の前をカワセミが飛び去った。
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さらに北上、新幹線の高架下をくぐり東へ。坂道を登り、
車山古墳、黒住教本部の立派な建物を過ぎ、山道へ入ると茶臼山古墳の領域
吉備の中山だ。

見晴らしよく、岡山市街が見える。
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茶臼山御陵には大吉備津彦命が祀られている。 |
吉備の中山の原始的祭祀行事の跡と考えられている巨石などをみてまわる。
坂を下っていくと盛り土をされた荒れ果てた墓所がある。

藤原成親の墓所
藤原成親は鹿ヶ谷において僧、俊寛とともに平家追悼の密議にやぶれ
1177年この地に流され非業の死を遂げた。
「あたらこの成親がごときよき臣を有木の山のうもれ木にして」 平賀元義
麓へ下りると・・・

鼻ぐり塚
塚には数知れない牛の鼻輪が積まれている。
牛や豚の霊を祀っているが積み上げられた色とりどりの鼻輪にちょっとどきっとした。
思わず手を合わせ命を無駄にすることなくありがたくいただきます
なんてつぶやいていた。
ここから1.5キロほど東にあるく。
吉備津彦神社本殿
古くより備前一宮として崇敬されている。
大化改新後、吉備の分割によって備中一宮の吉備津神社より備前国に勧請したとある。
同じ茶臼山の麓、僅か2キロ弱しか離れていない地に二箇所の吉備津彦命を祀る神社のあることを
不思議に思っていたが納得できた。今はどちらも岡山市だが昔は備前備中の境がこの間にあったらしい。
大化改新後の分割について調べると
吉備の国は備前、備中、備後に分けられさらに北部は美作として分離独立したとある。
そういえば広島県東部の地図でも吉備津神社をみたような記憶がある。

境内の大杉
樹木医によって保護されている。
このように幹が半分に朽ちてもなお緑の葉を茂らしている。
木の命を大切にということだろうが、その幹を見るとちょっと痛々しい。
木の気持ちを聞いてみたい。

さとやま