北の吉備路

<2007年 冬>

鬼城山、岩屋

二年半ぶりに鬼ノ城へ行ってみた。ビジターセンターも新しくなり、解説パネルや模型、映像解説が常設され
総社市の史跡整備への意欲が感じられた。西門の復元、角楼の復元がすすみ、また裏手の北門も整備されつつあった。
ぐるっと一周 (1時間強) した後、鬼城山の北西にある岩屋に巨石をたずねた。

鬼ノ城



鬼城山は吉備高原南端に位置する標高約400メートルの巨石の山。眼下に吉備平野、遠く瀬戸内海や四国を望むことができる。

古くから吉備津彦命と温羅の伝承に登場、鬼退治の山として親しまれていたが
1971年、列石が発見されたのを契機として古代山城である事がわかった。

築城の時期は5世紀〜7世紀と諸説あるそうだが663年大和朝廷が白村江の戦に大敗した後、唐、新羅の侵攻を恐れ
西日本各地に築城した古代山城の一つとされている。古代山城は23箇所が確認されているそうだが
そのうち日本書紀など歴史書に記載されているものを朝鮮式山城というのに対し
鬼ノ城のように文献にないものを神籠石系山城というそうだ。

山容は擂鉢を伏せたような形で8合目付近に土塁が主体の城壁が築かれ全周2.8キロ
発掘は1994年から開始され城門4箇所、水門6箇所、石垣、礎石建物郡などがみつかっている。


西門(↑マウス)
西門の門道は床石、柱穴などほぼ完存状態で見つかり、すでに門(掘立柱建物)の復元がされている。


復元された版築土塁
神籠石系山城の城壁は基礎に列石を据えその上に版築土塁が築かれる。
土塁は壁となる位置に型枠を作って土を入れ一層ごとにつきかためるという版築工法をもちいている。(展示の説明から)

写真の縞がつきかためた一層一層。


敷石と城内の列石


神籠石状列石


角楼
城に近づきやすい尾根を警戒して作られた。



復元途中の北門
美しい檜の各柱と丸柱が立てられ復元が始まっていた。



屏風折れの石垣
城の外側に張り出した突出部)


小さな東門と吉備平野



巨石に彫られた千手観音



南門
石に柱の穴が開けられ往時をうかがえる。
門の下はいずれも絶壁で外敵に備えている。
ここもまたいずれ復元されるのだろうか?西門とほぼ同じ形式という事だから
発掘したまま、往時の柱穴などがみえるままに保存してほしいなという気がした。


水門(第2水門・・・通水溝をそなえ石垣上部から排水)
第1水門・・・石垣下から排水)・・・マウス↑)
城壁が谷を渡るところでは排水が必要なため城内には6つの水門がある。
水門は下部は石垣、上部は版築盛土でつくられている。



岩屋

鬼城山の西に位置する辺りは平安時代末期、山岳仏教の聖地で三十八坊があったとされている。
また、江戸期には周辺に三十三観音道が整備され岩屋寺周辺にはその一部が残っている。





岩屋寺



皇の墓
岩屋寺の開祖、善通大師の墓と伝えられている。
大師は文武天皇の皇子で7歳で岩屋山に登り僧となったといわれる。

一帯は花崗岩質の地質で、自然の侵食や隆起で出来た奇石が点在する。
この岩にも温羅の伝承にちなんだ名がつけられている。

鬼の差し上げ岩 八畳岩

鯉岩
鬼の餅つき岩 屏風岩

山へ踏み入ればところどころに石造りの観音が祭られている。


馬頭観音(マウス↑)


岩切観音(ちかづくと↑)







吉備高原の南縁に位置し、里山の情景をいたるところに留めているという北の吉備路
今回は歴史遺産をまわったが花の咲く頃ともなれば沢山の野草にも出会えるはず。
桜の咲く頃にまた来てみようとおもう。



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