中国三十三観音霊場(2)広島県



8, 明王院



広島県福山市を流れる芦田川の西岸、愛宕山の山腹にある真言宗の古刹。
石段を登った先に1614年に再興されたという趣のある山門が見える。室町様式を伝えるといわれる山門は萩(榛の)一本造といわれ、「萩の門」ともいうそうだが・・・実際のところ萩では大門を造れないでしょうにと不思議に思う。
愛宕山の緑の中に建つ朱塗りの本堂と五重塔が堂々と美しい姿を見せている。本尊十一面観音を安置した本堂は1321年の建築で、和様と唐様折衷で屋根のそり具合が美しい。五重塔も古く1341年建立で本堂とともに国宝である。書院や護摩堂は塀越しにちょっと覗き見たがちょうど庭師が清掃中だった。
参拝の後、奥の院から展望台へと通じる山道と階段を登った。木陰とはいえ真夏の暑さの中をひたすら上へ。
途中、愛宕神社跡の荒れ果てた社の壁に大きな天狗のお面を見つける。パンフレットに書かれていた愛宕山の烏天狗と関係あるんだろうか?さらに階段をのぼりつめると草戸愛宕神社本殿を中に収めてあるという倉庫のような社があり現在は近くの稲荷神社に分祀されているが往時は神仏混合であったことを物語っている。
登りつめ、周囲が開けると展望台がありそこからは芦田川と瀬戸内海、福山の町が目の前に広がった。

本堂
神仏習合の名残(愛宕神社の天狗と秘蔵の奥の院) 五重塔

縁起
大同2年(807)弘法大師が真言密教を学んで帰国の途中,寄港した際、この山の山容に霊気を感じ草庵を結んだことに始まる。この時、裏山、愛宕山の烏天狗たちが大師に協力して一夜造りの大門を立てたと伝えられている。強力な力で萩を折り曲げ左右の柱としたとされ、このことから山門を萩の門と呼ぶ。
本尊、十一面観音は檜の一木造りで伝教大師作と伝わっている。頭上の十一面の一つが首穴に埋まっているところから手打ちにあった人の身代わりとなったと言われ、依って「身代わり観音」ともいわれる。

本堂は鎌倉時代に紀貞経の、五重塔は南北朝時代、庶民の浄財によって建立され共に国宝となっている。
江戸時代、福山城を築いた藩主,水野勝成によって祈願所と定められ末寺48を統べる大寺とし、護摩堂、庫裡、書院、弁天堂、愛宕神社,十王堂などが建てられた。

記:8月17日







9 浄土寺

山門をくぐると読経が響き渡っている。聞くとこの日は法要があり、中央の阿弥陀堂には入りきれないほどの信者さんが集まっていた。寺も忙しいらしく、拝観したいと思っていた庭園には入れなかった。
境内には鳩がいたりして、古刹の落ちついた雰囲気はここでは感じられなかった。

山門 阿弥陀堂

金堂 (国宝)

→多宝塔(国宝)


縁起
推古24年、聖徳太子の開基と伝えられ、本尊、十一面観世音は太子作と伝えられている。この観音像は秘仏であるが、本堂(金堂)には聖徳太子像が祀られている。
平安時代には高野山と深い縁を結び、鎌倉時代末期には奈良西大寺の定証上人が西国教化の折に立ち寄り、七堂伽藍の堂塔を再建した。その伽藍は焼失するが20年後には地元の豪商によって再建され今に至る。
★本堂(附:厨子、棟札2枚、境内図2枚)は 嘉暦2年(1327年)の建立。入母屋造本瓦葺き。和様を基調として大仏様、禅宗様の細部を取り入れた、中世折衷様仏堂建築の代表作。
★多宝塔 は 嘉暦3年(1328年)建立の和様の多宝塔。中国地方における古塔の一つとして、また鎌倉時代末期にさかのぼる建立年代の明らかな多宝塔として貴重。
その後、各時代の公家、武家共にこの寺を味方につけようと信仰した。。
江戸時代にはいると寺は港町尾道の繁栄と共に民衆の信仰対象となっていった。

金堂、多宝塔共に1997年国宝指定。建物のみが国宝ということが一般的であるが、京都の清水寺などと同じく境内全域が国宝である。

記:10月21日







西国寺




沢山のわらじがかかった山門を入り長い階段の先に、ゆったりと両翼を広げたような風情で金堂が建っていた。ちょっと古びた屋根の色合いが美しい。右手奥の階段を緩やかに上ると、庫裡、不動堂、護摩堂、そして大師堂と並んでいる。こちらは密教伽藍の古刹らしい趣で落ちつけるいい寺だった。

仁王門 金堂

大師堂


三重塔


縁起
天平年中、行基が巡国行脚の途上、尾道に立ち寄った際、加茂明神の夢を見たのをきっかけにこの地に仏堂を起こそうと志した。多くの信者の助けを得,わずか三カ月で完成寺の起こりとなった。
1066年、炎上。1081年白河天皇の勅令により再建、その後、勅願寺となり院政全盛期には官寺として栄えた。
鎌倉期から戦国時代を通じて武家の援助を受けつつ存続、
江戸時代には浅野家の領下で大寺の格式を保ち続け、今に至る。

記:10月21日








10 千光寺



千光寺は千光寺公園の一角、尾道の中心部にある。すっかり観光化され、喧騒の中にあるといった感じの寺との印象が否めない。ただ、海側に目をやると尾道大橋の向こうに瀬戸内の島々も美しく,風光は明媚である。

本堂(赤堂) 玉の岩
鐘楼                岩に彫られたからす天狗          三十三観音堂

縁起
この山を大宝山、寺を千光寺、港を玉の浦といういわれは「玉の岩」の伝説に基づいている。その伝説とは・・・
往古、この岩の上に如意宝珠があり、夜ごと光を放ち海上を照らしていた。寺僧にその大石を売るよう願ったが拒否された異国人がその光る玉を奪ってしまった。この岩の頂に大きな穴があいているのはその宝石があった跡である。

開基は806年、中興は源氏の名将、多田満仲と伝えられ、大宝山の海抜100メートルに位置している。
建物は
本堂・1686年の舞台づくり  護摩堂・1710年  三十三観音堂・1743年 毘沙門堂・1754年 鐘楼・1890年

記:10月21日









11 向上寺


向上寺山からの遠望
しまなみ海道、生口島北ICでおりる。平山郁夫美術館や耕三寺といった観光客の多い瀬戸田の一角、潮音山の中腹にあるひっそりした感じの寺だ。山門も木立に覆われるように建っている。本堂は立派であるが新築で今のところ趣にかける。本堂わき石段の先にあるのが国宝三重塔。そのさらに上へと登ると三重塔の向こうに海がゆったりと広がる。
山上に登れば緑に囲まれた耕三寺全景が見渡せるのもなかなかいい。



山門

鐘楼 国宝・三重塔

縁起
応永10年(1403)地頭、生口守平の開基。愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年、関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。

潮音山の山頂にある国宝三重塔は、永享4年(1432)に建立されたもので、全体の高さは19m。
和様唐様の混合様式で内部全体にも極彩色が施され、室町初期で最も美しく優れているものの一つに数えられている。


向上寺山展望台より



記:10月21日









12,佛通寺



広島県、山陽自動車道の三原久井インターで降り486号から50号へ。佛通寺の標識に従って進むと道はどんどん山間部に入っていく。紅葉の時期は観光客も多く、駐車場も満車状態だが何とか駐車し,もみじに覆われた佛通寺沿いの参道を進む。川にかかる巨蟒橋を渡り、境内にはいる。開基は室町時代とはいえ、戦乱や明治の廃仏希釈によって衰退したというこの寺の堂宇はいずれも新しく、古寺という感じはしなかったが、拝観期間中ということもあって堂宇内見学可能だったのはうれしい。この地における臨済宗大本山の風格が漂い堂宇も整い、何よりも境内、参道の紅葉の美しさに目を見張った。
境内と川を挟んで向かいの山腹へと含暉坂を登ると、創建当時の建物である開山堂、地蔵堂。そして多宝塔に至る。その周辺には文政年間以来奉納されたという羅漢像が静かにたたずんでいた。

巨蟒橋 (鞘橋・・・屋根つきの橋) 総門
仏殿 (文化5年の再建)・・・内部マウス↑ 大方丈
庫裡 禅堂
輪蔵(経堂)・・・・参道にある 観音堂・・・内部マウス↑
地蔵堂と開山堂 羅漢

歴史
応永4年(1397)地頭、小早川春平が愚中周及を招請して開基、小早川一族の帰依を受けて隆昌。最盛期には塔頭88、末寺3000を数えたという。
応仁の乱後戦乱に巻き込まれ、一時、復興も見たが福島氏により寺領没収存亡の危機に立たされる。
後、浅野氏により復興されたが,永享と寛政の大火、明治の廃仏希釈などにより衰退。
明治38年香川寛量和尚を管長として臨済宗十四本山の一つとして独立した。

記:11月10日









13 三瀧寺



広島インターで高速を降り、54号を市街地方面へ南下、中区の北大橋で旧太田川を、三滝橋で放水路を渡り、山方向に進む。広島市の北西部、三滝山の中腹にある三瀧寺は大同4年、空海によって創建されたと伝えられる古刹。山の谷あいに位置する地形のため1945年の原爆の被害もほとんどなく、被災者の救護所となったという。
市街地からそう遠くない位置にありながら境内は深山幽谷の風情があるというのだが、ちょうど紅葉の季節でもあり、明るい光に包まれていた。
入り口、右手高台にある多宝塔は1951年、和歌山の広八幡神社から原爆被災者慰霊のために移築されたもので堂内には木造阿弥陀如来坐像が安置されている。
左奥へとつづく参道には右手に想親観音堂を見て、鐘楼堂をくぐり、本堂に向かって進むと、左手奥にこの寺内にある三つの滝の一つ、梵音の滝の流れが美しい
十六羅漢をはじめたくさんの石仏が参道わきの土手に並び、参拝者を見守るかのようである。紅葉トンネルの下を行くと、その先に舞台造りの本堂が見えてくる。本堂には仁王、不動明王、金剛力士といった木像が並び、堂の周囲にもたくさんの石仏が取り囲んでいる様が独特の雰囲気を醸しだす。堂を出て振り向けば、一段高い山腹に三鬼観音堂がたたずんでいる。
水流の異なる「駒ヶ滝」「梵音の滝」「幽明の滝」の三滝があり、その水は平和記念式典の献水にも使われている。


多宝塔


想親観音堂


三鬼観音堂

鐘楼



石仏群



本堂




仁王


縁起
大同4年,唐への留学から帰国、都へ登る途中でこの地に立ち寄った弘法大師が、末世有縁の霊地であると聖観音菩薩の梵字を石に刻み、滝の飛沫のかかる岩窟に安置,修法をなされたことに始まると伝えられ、以後観音霊場として多くの修行僧が滝に打たれて禅定に入りいくつもの堂塔を構えてきたという。
鎌倉期に安芸の国武田氏の庇護を受け寺運は興隆するが、以後、戦乱や水難で多くの堂塔を失い、一時は市中寺院の奥の院としてかろうじて寺を護持する時代もあった。

記:11月25日









14、大聖院


御成門からの展望

宮島桟橋より海沿いに20分、観光客で賑わう厳島神社を右に見て、さらに5分程歩くと、人通りもまばらになってくる。橋を渡った先、仁王門をくぐり、中央に大般若心経筒が並ぶ石段を登る。鐘楼を左に見て、御成門をくぐる。そこから振り返って見る風景が素晴らしい。門の正面に波切不動明王を祀る本堂、右手に観音堂が建ち、その奥に魔尼堂が堂々とそびえている。薬師堂や阿弥陀堂が建ち並ぶ紅葉の植え込みの中をさらに奥に進むと遍路窟の上に一段と高く大師堂が建っている。ここから見ると海を背にした観音堂の屋根が美しい。


魔尼殿


魔尼殿
仁王門

鐘楼

観音堂

歴史
正式な呼び名は多喜山水精寺大聖院。霊峰・弥山の麓にある真言宗御室派の大本山。
明治の神仏分離令までは十二坊の末寺を有し、嚴島神社の別当職として祭祀を司ってきた。

大同元年(806年)に弘法大師空海が三鬼大権現を勧請し弥山を開基して以来1200年の歴史をもち、弥山山頂の霊火堂や三鬼堂、などの管理にも携わってきた。
本堂は鳥羽天皇の勅願道場として創建されたことから、鳥羽天皇の第五皇子である覚性法親王が門跡を務めた京都・仁和寺や歴代皇室との結びつきが深く、安土桃山時代には後奈良天皇の御子で仁和寺第二十世任助法親王が法流相伝のために逗留、明治天皇の厳島行幸の際には行在所となった。嚴島神社の年中行事として行われている八月の玉取祭や大晦日の鎮火祭は、任助法親王が京より伝え天正年間に大聖院から始まったものである。
また豊臣秀吉がここで盛大な歌会を催し、祈不動堂を再建して念持仏の波切不動明王を奉納した。



弥山伽藍

弥山本堂、三鬼大権現,霊火堂、大日堂、奥の院からなる弥山伽藍は標高535mの弥山山頂に建ち並んでいる。

弥山伽藍、霊火堂とその内陣〜
不動明王を祀る不滅の霊火は1200年あまりの年月、絶えることなく燃え続けているという。
中央には炭火の上に大きな茶釜が吊るされ煮えたぎり、其れを汲んで飲むこともできる。
中では燃える炭火の煙に包まれる。

記:11月16日




近隣立ち寄り・・・・・笠岡干拓・鞆の浦・尾道・しまなみ海道・広島市内・宮島


山口へ