中国三十三観音霊場(3)山口県




特別霊場:般若寺



高速を玖珂ICでおり、柳井方面へ。市役所の前を通り、先で右折、しばらく行くと般若寺という案内板を左に曲がり、坂を上がっていく。寺域にはいると右手に聖徳太子鞭の池があり、そのほとりに風化したような玉垣に囲まれた、墓が二つ並んである。その隣から登っていく階段は観音堂へと続くようだが、先ずは右に池をみて進むと左の山手に本堂が静かにたたずんでいる。本堂裏手の山道に立つ地蔵を数えながらめぐると、登りきった辺りに奥の院の祠がありさらに進むと、瀬戸の海を見渡す碕に達する。ここには毘沙門天が祀られ般若姫が、命を落としたという大畠灘が遠望できる。
一巡後、本堂とは向かい合わせの山腹にある観音堂へと階段を登る。途中、仁王門があったが、風化し崩れている。どおりで中に入っていたであろう仁王は先の本堂に安置されたいたのだと気がつく。広場の中央に立つ観音堂には先に行った宮島弥山の消えずの灯りから移されたという火がともり、白壁に開けられた「月、星、太陽」の明りとりからは堂内に光がさしこんでいる。
鐘楼で打った鐘の音は低く荘厳な響きで、印象的だった。


本堂


用明天皇と般若姫の陵墓


聖徳太子鞭の池

瀬戸の干満に合わせ水面が上下するようだが・・・
奥の院
観音堂

鐘楼

縁起
聖徳太子の父、用明天皇の勅願で創建された真言宗の古刹。
用明天皇の后として上がるはずだった豊後の国の満野長者の娘、般若姫の菩提を弔うために建てられた寺。般若姫は、先に都に上った用明天皇のもとに向かう途中、大畠灘で嵐に遭い、皆を守るため海に身を投じたといわれ、その際、西の峰を指して願った遺言「彼の峰に喪ってほしい」に基づき建てられたのが般若寺建立の由来である。この悲劇は「般若姫伝説」として今に語り継がれている。後に用明天皇の御陵もここに移された。

般若姫の亡骸と用明天皇の遺髪が納められている用明天皇・般若姫の御陵のそばには、聖徳太子鞭(むち)の池がある。その昔、聖徳太子が用明天皇のお墓参りに来たとき、供える水がなく、そこで、地面を鞭で突いたところ、清水が湧き出てきたという言い伝えのある池。
寺宝として鎌倉時代に造られた銅鐘や、般若姫由来記三巻、用明天皇の勅額などがあり、なかでも銅鐘は建長7(1255)年鋳造の銘があり、山口県の有形文化財に指定されている。

歴史
恵慈和尚による開山以来1400年が経過する。第九代住職に弘法大師の弟、真雅和尚を迎えてから真言宗となる。
大内氏、毛利氏の保護を受け一山、百二十ヵ寺という末寺を持ち、大いに栄えたが、江戸時代に大火災のため多くを焼失した。









第15番 漢陽寺




広島JCから中国道を山口方面に向かう。何とトンネルの多い道であることか。車窓からは残雪の中国山地を背景に名残の桜が美しい。鹿野ICで下り、標識通り進めばすぐに山門前に着く。
この寺では申し込んでおけば精進料理も味わえるのだが、いつものことで朝思い立って出かけてきたので、今回は教えてもらったうどん屋さんで手打ちうどんを頂く。
聖観音を安置するお堂に手を合わせ、本堂へと進む。よく手入れされた庭が心地よい。
寺の奥さんはお茶の先生もしておられるらしく穏やかな雰囲気で応対してくれる。どうぞごゆっくりということで本堂に上がる。先ずは前庭の曲水庭へ。平安時代様式で、当時の貴族が詩をつくり、盃をうかべ遊んだという昔が偲ばれるが、ここでは禅庭として枯滝や築山などと組み合わせ独特の雰囲気が感じられる。
中庭には枯山水の地蔵遊化の庭があり、本堂、渡り廊下、書院と四方から眺める事が出来る、白砂の渦巻き紋が美しい。本堂裏には潮音洞がある
この日は閉じられていたが、その水が曲水庭はじめ、書院裏の蓬莱山池庭や東側の九山八海の庭へと運ばれているようだ。
本堂右手、庫裡につづく聴流殿の庭はモダンな雰囲気で、ここにきて重森三玲の作庭であろうことに気がつく。
山門右手にも大胆な石組があり北宋の険しい水墨画を思わせる。


曲水庭 地蔵遊化の庭
蓬莱山池庭 聴流殿の庭

縁起、
臨済宗大本山南禅寺の別格地で、山口県内屈指の名刹。応永7(1374)年、大内氏26代当主・盛見(もりはる)が、当時名僧の誉れ高かった用堂明機禅師を招いて開基、大内家の祈願寺とした。南禅寺は京都五山の上に位置し、別格の扱い。漢陽寺がその南禅寺の別格地であるのは、用堂禅師の御徳によると考えられている。

建築と潮音洞
本堂には樹齢2000年以上の台湾桧を使用。この建物は大内盛見公創建当時の様式を復元したもの。
本堂裏手には、県指定史跡の潮音洞がある。承応3(1654)年、岩崎想左衛門重友が鹿野村一帯の繁栄のため、錦川上流の水を引き、漢陽寺の裏山にトンネルを掘り、それ以来、灌漑の水は、干天のときも地域を潤してきたという。


庭園
庭は本堂や庫裏を取り巻くように作庭。設計は日本庭園の権威・故重森三玲で、8年の歳月をかけて完成させた。曲水庭、地蔵遊化の庭、九山八海の庭、聴流殿前庭、玉澗式枯山水の庭……。平安・鎌倉・桃山など各時代の様式の庭がひとつの寺で見られるのは、漢陽寺だけといわれる。これらの庭にも随所に遣り水として、潮音洞の流水を活用している。


追加画像・・・(周辺と寄り道防府天満宮)








第16番 洞春寺



山口市の観光名所、瑠璃光寺五重塔のある香山公園に隣接して、この静かな寺はあった。
山門をくぐり、松並木を行くとやがて突きあたりの門の向こうに大きな本堂が見えてくる。それと並ぶように建っている鐘楼門に時代を感じながら境内にはいる。
国重文の観音堂はさすがに堂々とした均整の取れた建物で、その中に、聖観世音菩薩像を納めた岩屋風のちょっと風変わりな厨子が入っていた。
本堂は江戸時代の再建で、その隣の庫裡と共に堂々とした建物。庫裏の土間に入って見上げると、吹き抜け天井近くにステンドグラスがはめられ、梁や縦枠、障子などとの組み合わせが見事に生きている。図柄も寺らしく蓮の花などがデザインされていた。
寺の愛犬、「まる」も出てきて、84歳だという寺のお手伝いさんとしばし談笑した。

山門 鐘楼門
観音堂 観音堂内
本堂 まる君

縁起、建物
この寺は、戦国大名の雄でありこの山口を西ノ京と言わせるまでに栄えさせた大内氏の滅亡後、其れに変わって君臨した毛利元就の菩提寺として1572年毛利輝元の発願で嘯岳てい虎禅師を迎え開基。
当初は安芸吉田の城内にあり、寺領2300石を有する名刹であったという。寺構は時代を経て山口、萩と転遷し、幕末に至って、当地、大内氏の国清寺の跡に移され、今に至っている。毛利氏代々の栄枯盛衰を偲ぶことのできる寺である。

桧皮葺の山門は国清寺創建当時(室町時代)のものといわれ、大正時代に移築された大内持盛の菩提寺、観音寺から大正時代に移築されたという禅宗様式の観音堂(1430年)と共に国の重要文化財に指定されている。







第17番 龍蔵寺



山口市最古の名刹といわれ、静寂な境内に四季折々の自然があふれているというこの寺には参拝の人々も多い。
さすがにこの季節は、参道の紅葉も裸木となり、観音堂に覆いかぶさるような天然記念物の銀杏も今はすっかり葉を落とし境内は閑散とした冬枯れだ。、4〜5月にぼたん祭りがあるというぼたん園もまだわずかに芽ぶきだしたばかりだった。
先ずは、馬頭観音と雪舟が書いたという絵馬が納められた観音堂にお参りし、水量の少なくなった鼓の滝を仰ぎ見た。三段になっているようだ。本堂に足を向け、堂内に沢山並べられた冬ぼたんを拝見する。ちょうど法話が始まっていて、ユーモアを交えた住職の話が聞こえる。前もって申し込めば、法話を聞き、精進料理を頂くことができるらしい。人が多いと思ったのはこのためのようだ。
せっかくだから、奥の院まで登ってみる。滝の裏へまわり、滑りやすい岩の山道を登ると、滝へと落ち込む流れがあり、その先の切り立った大岩に線刻の大日如来が見えてくる。年月を経て風化が激しいからだろうか,朱でその線をなぞっているのはちょっといただけないなどと思う。古くより修行僧がこもったであろう洞窟には、風化が激しいとはいえ沢山の羅漢が並んでいた。
帰りがけ、鐘楼堂のわきで雪舟が作ったといわれる、苔むした岩の並ぶ庭をみる。
雪舟は30歳過ぎで大内氏に迎えられたようで、山口には雪舟ゆかりの寺が他にも存在していることを知った。


馬頭観音(観音堂) 鐘楼堂と桜門 大日如来(宝物庫)
観音堂 絵馬伝、雪舟作)
雪舟の庭 奥の院
イチョウ(樹齢900年) 鼓の滝 奥の院


縁起
今から、約1300年前(698)役小角が豊後の彦山から飛来し、奥の院の岩窟に熊野権現を観請、秘法の護摩供を厳修したと伝わっている。その後、天平13<741)年、行基菩薩がこの岩窟に草庵を結び自ら千手観音を彫り、寺名を
龍蔵寺とした。
大内氏、毛利氏時代には守護寺として保護された。








17 宗隣寺


                                   龍心庭

寺は宇部工業高校や、山口大学付属病院などのある宇部市小串、真締川に沿った一画にある。境内正面には平成に入ってから再建された真新しい本堂が堂々と立ち、その左手に観音堂、門の右手に竜宮造り風の鐘楼がある。
先ず、観音堂に手を合わせる。前たちではあるが如意輪観音が祀られている。
書院の納経受付で庭園拝観をお願いし、本堂に上がる。
庭は閑寂な趣がありしっとりとしていて心が落ち着く。、水面に写る緑が美しい。

年7月から順不同で巡ってきた中国三十三観音霊場巡りはこの寺で満願となった。鐘楼堂で静かに鐘をつき一年かけて巡った旅を締めくくった。


本堂 観音堂
如意輪観音
書院 鐘楼


縁起
宝亀8年(777年)、唐より来朝した為光(威光)和尚が松江山普済寺として創建。松江とは太湖の支流にある湖のことで、古来、中国の人は観音菩薩の聖地として信仰していたという。その後寛文10年(1670年)福原氏が宗隣寺として建立。平成10年に本堂を再建。観音霊場の第18番(本尊如意輪観音)札所で観音信仰の聖地。

1736年、整備工事の際に朝鮮古鐘が発見されたが、国の重要文化財に指定されたその鐘は経緯は不明だが、現在大阪の鶴満寺に保存されている。


本堂の北側にある「龍心庭」は山口県最古の庭園(南北朝時代に築庭 約650年前)池泉式庭園で全国唯二つしかないという山畔を利用した池庭で、特に奇岩巨岩を用いず池の中に直線に八石夜泊石を配しただけで、護岸石組みも枯滝や出島の主なものにとどめた閑寂な趣きで、禅の真髄を説いているといわれる須弥山式禅宗庭園である。国の名勝庭園に指定されている。









18 功山寺


                                      山門

長府観光会館前に車をとめ、散策MAPに従って、。長府藩侍屋敷長屋などを見ながら壇具川沿いの道を、功山寺へと向かう。途中川には、カモや鯉がゆったり泳ぎ、川べりの緑も美しい。カエデやクスの新緑に覆われた雄大な二層の山門は目をみはるばかりの大きさ。柱間から見える桧皮葺の国宝仏殿が安定した優美な姿を見せる。
先ずは、拝観受付で参拝料を納め、運よく開扉中の仏殿内へ。
外観は二層だが内部に入ると、高い天井にはシャクナゲが描かれている。花頭窓、礎盤の上に立つ柱といい、鎌倉時代末期の典型的禅宗様式である。本尊、千手観世音菩薩は檜寄木造りで、端正な顔立ち。説明によると仏殿と同時期のものだろうということだった。また、周りに並ぶ二十八部衆像もかなり傷んでいるとはいえ室町時代の作だろうということだった。この仏像群こそが時代の流れの中で寺の栄枯盛衰を見て来たに違いないと思うと感慨深い。
仏殿をゆっくり拝観した後、法堂,さらに書院へと進む。
庫裡の玄関には光によってその目の水晶が浮かびあがり、瞼が開閉するかに見える韋駄天立像が祀られている。寺の方が教えてくれなかったらこの珍しい像を見落としたかもしれない。

書院は維新のころ、京から長州に落ち伸びた公家が潜居したことで有名らしいが、その庭のコケの見事さに圧倒されたコケの名はホソゲシラガゴケ(ホソバシラガゴケのことらしい)と教えてもらう。


総門 法堂
千手観音菩薩坐像 高杉晋作像 韋駄天立像
庫裡からの書院 書院からの庫裡


                                    仏殿


長府について
長府は下関市の中心部から北東へ約8km、下関市の東方に位置する。
その地名が示すように、古来より、「長門国府」が置かれ、元寇の後には長門探題が設置されるという古い歴史をもつ。戦国時代には守護大名・大内氏 がこの地で滅亡。江戸時代に入ってからは、長州藩の支藩・長府藩設置により長府毛利家がこの地を治め周辺に武家屋敷が広がることになった。幕末には、高杉晋作が長州藩内の佐幕打倒を図り功山寺で決起した。ここはまさに維新発祥の名刹といえる。

寺の縁起、歴史
1320年、長門探題として赴任した北条時仲の発願、虚庵玄寂禅師を開山として金山長福寺として創建。

1334年足利尊氏より寺領を賜り寺は隆盛を極めたが、
1557年には毛利元就に襲われた大内義長が仏殿にて自害し滅亡したのを機に、寺も衰退。
江戸時代となり、長府藩主となった毛利秀元が寺門を興隆し名を功山寺とした。
1864年、高杉晋作が回天の義兵をあげ、明治維新への黎明を告げる警鐘となる。
11953年、仏殿が国宝となる。








20 大照院


                                毛利家墓所

萩駅の後方。橋本川を渡った椿区にたたずむ寺。白壁の美しい鐘楼門の先に、あるはずの本堂は・・・・昨年より修復工事中で板がこいに覆われ、現在は書院が仮拝所となっていた。工事中の本堂わきを工事計画のパネルなどを見ながら、書院へ。本堂,庫裏,書院,鐘楼門は寛延3年(1750)の建物だそうだが、かなり古色が進んでいる。禅宗寺院らしさを見せる庫裏は切妻造,本瓦葺の豪壮なつくり。書院は端正なつくりの数寄屋風。書院前の池泉回遊式庭園も工事中とて、荒れた雰囲気ではあるが、コウホネが黄色い花をつけ、早朝ということもあって、まだふ化したばかりのトンボを見る事が出来たのは面白った。
書院内には、ガラスケースの中に、国重文の、木造赤童子立像が安置されていた。

一旦、鐘楼門を出て、標識に従い、毛利家墓所へ。
門をくぐるとその荘厳さに目を見張った。特別な空間に圧倒される。深い森に囲まれ、600基を越える石灯篭とその奥、藩主の墓の前には各々に鳥居がたっている。奥で、落ち葉を燃やされていたご住職が、丁寧に墓所の説明をしてくださる。
ここには藩主と共に、殉死した家来たちも葬られているということだった。石灯篭は、殉死にかわって、藩主への恭順を示すものだったようだ。

書院 書院の庭
修復前の本堂 庫裡

縁起
延暦年間(8世紀末 - 9世紀初)に月輪山観音寺という前身寺院があったというが、創建の事情は定かでない。鎌倉時代末期に建長寺の義翁和尚が大椿山歓喜寺と改め、臨済宗の寺院とした。その後荒廃した。
荒廃した寺を再建したのは、1654年萩藩2代藩主毛利綱広で、亡父の初代藩主秀就の菩提寺とし、、その時秀就の法号にちなんで霊椿山大照院と改める。

毛利家墓所
境内の萩藩主毛利家墓所は国の史跡で、初代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広と2代から12代までの偶数代の藩主と夫人や藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が603基ある。










21 観音院


                            玉江港、高台に観音院

玉江駅の先、民家の密集する橋本川河口の高台に寺は立っていた。石垣上ののアジサイが美しい。急な石段を登ると、目の前に観音堂。眼下に、広い河口から日本海と萩城のあった指月山を望む。ゆったりとした眺めだ。

寺の奥様によると・・・
「この玉江はその昔、盛んな漁港で観音院は海の安全を祈る多くの漁師たちの信仰を集めた。、お堂の前の角に立つ灯篭は、当時の漁師にとっての灯台だった。
観音院はもとから、洞春寺の役僧寺で、毛利家が萩に移ると同時に洞春寺に従って当地に来た。本尊の聖観音像は、大内義孝の念持物であったが、幾多の経緯をたどって毛利輝元により萩城築城の安全を願って当寺に奉納された」
等、話は尽きない。短時間だったが、ただ、朱印を頂くだけよりもこのように話こむのも旅の楽しみ。
洞春寺はその後、山口に移ったが、当寺はそのままここにとどまったようだ。

観音堂 指月山、日本海&(灯台)


縁起
観音院は一般には玉江観音といわれ、海上安全や、水難防止観音として崇められている。
809年、不見別当が草庵を結んだことに始まるが乱世に次第に衰微、僅かに小堂を残していた。
1558年、毛利元就の菩提寺、洞春寺の役僧寺として開山したが、輝元が居城を萩に命じられた時に洞春寺に従って萩に移り、1609年、現在地に伽藍を移築、その後、集落の火災で類焼したが1852年毛利藩の庇護を受け再建された。









近隣立ち寄り・・・・・・・柳井・防府・山口市内・宇部市内・長府・津和野(島根県)・萩・長門・下関


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