中国三十三観音霊場(4)島根県



22多陀寺


弥山(稲荷社の上)からの「畳ヶ浦」国府海岸一望

7時20分ごろ家を出て、山陽自動車道〜浜田自動車道と走りこの寺に着いたのは9時40分ごろ、計画よりは随分早く着くことができた。本堂は10月から修復が始まっていると聞いていたので、参拝はできないとわかっていたが、はるばる来たのにとちょっと残念。工事中とて結構荒れた境内をまわることとなった。仁王門横の大楠は天然記念物というだけあって見事で、仁王も楠の一刀彫、彩色されていないところがより迫力を感じさせる。
境内左手階段上に鐘楼、経堂、ちょっと簡素な大師堂などが立ち並んでいる。その右手の赤い鳥居を登り稲荷社からさらに登ると広場があり、そこから日本海が展望できた。修復中もあってか境内の整備が滞っているらしく木々が伸び放題で枝に邪魔されせっかくの景観の邪魔をしていたのが惜しかった。

概要 創建:大堂元年(806) 開山:流世上人 宗派:高野山真言宗 本尊:十一面観世音菩薩(初午観音)


仁王門の屋根と天然記念物の大楠木 仁王(楠の一木一刀彫)
工事中の本堂(部分) 流木天部像(本来は本堂内:掲示板を写す)
開眼観音(刺繍) 修行大師像と大師堂
鐘楼 天然記念物の桧


縁起/歴史
開山、流生上人は空海と相弟子で共に唐において恵果阿闍梨より密法の直伝を受ける。空海より2年早く帰国した上人は石州の当地に,丈、一寸八分の観音を本尊として安置し真言密法の道場とした。

桧の大木にまつわる伝承
魚人が海上からこの山の桧の梢に光るものを見つけた。、流生上人はその大樹のもとに仏壇を飾り祈祷を行うと権現の使いと称する一羽の烏が降りてきた。その翌日、海から「その権現は我と同仏である」との地蔵菩薩の声が聞こえ、上人は喜んでその地に社をたてお祀りした。






23神門寺(かんどじ)

島根大学医学部付属病院の近くにこの寺はあった。街中ではあるが、遠目にも緑の森というのが解るほどの静かな境内であった。仁王門の仁王はかなり朽ちていて、目だけが目立ってその威厳あったであろう姿は想像できない。正面の本堂は誠に荘厳で見事な建物。鐘楼もまた堂々とした姿だった。大師堂前の銀杏をはじめ、よく手入れの行き届いた樹木が美しく、銀杏の黄葉はきっと見事であろう。本堂が閉まっていたので、庫裡を訪ねてみた。
戸をあけると小鳥のさえずりが聞こえ、年配の奥様が出てこられる。最近は賽銭泥棒まで出没し、不用心なので閉めているとのこと。しばし話し込んだが、困ったものだと嘆いておられる。

概要  創建:天応元年(781)  開山:宋肇菩薩  宗派:浄土宗  本尊:阿弥陀如来、十一面観世音菩薩


仁王門 観音堂
仁王 大師堂




本堂  鐘楼→


縁起・歴史
開山,宋肇菩薩、二世は伝教大師、三世は弘法大師ということからも、出雲市最古のこの寺院の隆盛を物語る。
弘法大師はこの寺から{ いろは四十八文字]を四方に広めたというところから「いろは寺」の別名がある。






24禅定寺(ぜんじょうじ)



出雲での朝一番にこの寺を訪ねた。51号を進んだが途中で表示を見落とし15分ほどのロス。気を取り直し、急な坂道を車で上る。車が入れるのは仁王門まで、そこからは600mほどだが坂道を歩くこととなる。こういったところは本来、歩くのが一番なのである。木々に覆われた参道を登るとやがて左に長い階段が現れる。見上げたその先が山門と本堂だ。石垣の上にその寺は存在している。
庫裡の前庭からは中国山地が一望でき、林立する木々の間からみる風景は雄大にして繊細。
本堂の中に入ると、護られるように内部にさらにお堂がある。こういう形は珍しいのではないかと思う。

概要  創建:天平年間(729)  開山:行基菩薩  宗派:天台宗  本尊:聖観世音菩薩


仁王門 仁王

山門

山門↑↓

本堂

本堂内


縁起・歴史
728年、行基が創建し禅定三昧に徹した聖地であり、自ら、本尊、聖観音を安置し、脇持に阿弥陀三尊を祀られたのが始まり。後に、その観音功徳が聖武天皇に伝わり勅願寺となる。山中に諸堂、伽藍が建ち、42坊の大寺に発展する。
しかし、兵火にあって、全山焼失。観音や阿弥陀如来は土中に埋められ守られたという。
江戸期には領主や民の寄進も多く,領主の祈願寺として再興され栄えて今に至っている。






25.鰐淵寺(がくえんじ)


深山幽谷

本来、日御埼から海岸にそっていくのが早いのだと思うが、道路工事中、松くい虫退治中とて通行できなく、やむなく431号線から入りなおす。寺に着いたのは3時前だったろうか。ここでも仁王門前の駐車場から先は歩きとなる。奥の院とされている滝からの流れだろうか。右手には渓流が流れ、京都の善峰寺を彷彿させる。やがて右手奥に薄朱の明るい橋が見えてくる。まわりの緑に映え美しい。お成り門前の受付で入場料を払って境内へ。ゆったりと本堂へ導く石段には両方からもみじが覆いかぶさるようで繊細なその葉からの木漏れ日が美しい。やがて階段上に深い赤に彩色された本堂が見えてくる。寺の景観は紅葉の季節はもちろんのことだろうが、本堂の赤と木々の緑のコントラストもまたいい。
本堂右手には弁慶が一夜にして大山寺から運んだと伝わる鐘が古式ゆかしくおさまっている。
左には立派なお社がある。かつて出雲大社との習合を確立した名残であろうか。
受付に戻ると、お茶のお接待をしてくれる。温かいお茶のうれしい季節となった。紅葉のころには大層にぎわうという住職さんのお話だった。

概要 創建:推古天皇二年(594)  開山:智春上人  宗派:天台宗  本尊:千手観世音菩薩、薬師如来


仁王門 仁王
大慈橋 お成り門
本堂へ 本堂
鐘楼


縁起・歴史
推古2年、信濃の僧、智春聖人が西の空に法華の首題が金色に現れたのを慕って北の浜に赴いたところ、
三人の翁、智尾、白滝、旅伏という神が現れる。その翌日、この山に分け入るとそこに数十丈の滝があり
其の巌窟に「我は釈迦仏なり」という堂々とした化人が安坐するのを発見。「ここに住んで妙法を唱え大衆に教えよ」との仏勅によって寺を開基する。その滝は浮浪滝と称され、この寺の中心であり、奥の院である。
推古天皇の眼病平癒を願ってこの滝よりの霊水を献上、その報賽によって、殿堂、僧院を創立,鎮国勅願の道場へと発展した。寺号の由来は、ある時上人が滝つぼに落としてしまった仏器を、おおきな鰐魚が、拾い上げ捧げたという逸話による。

奈良時代の開基、平安時代には慈覚大師により天台宗の寺となる。後、出雲大社、比叡山横川三昧院 等との関係を深め、鎌倉期には武家との関係も深めて出雲大社との習合を確立した。






26.一畑寺


境内より宍道湖を望む

宍道湖が一望できるというので是非寄っていこうと決めていたのだが・・・・
寺は5時の閉門。駐車場から駆け足状態で参道を行く。もう門前の店も閉店準備。
やっと参道を抜けたら今度は長い階段。やっとぎりぎりで間に合う。すでに住職さんが観音堂の戸を閉めておられる。それでも、本堂である薬師堂へどうぞと配慮してくださり中を見せていただく。一見の価値ある立派な本堂だ。
眼にご利益があるというのはありがたく、走ってきた甲斐があったというものだ。
この寺の縁起は、西国三十三の一つ壺阪寺の縁起に似ていて興味深い。

外に出て、宍道湖を見下ろす。あいにく霞んでいて、遠くの山々は見えなかったが静かに暮れていく湖を一望できた。一軒だけ開いていた門前の土産店のおばあさんから、目によい?と番茶をすすめられ買って帰る。。

概要  創建:寛平6年(894)  開山:補然和尚  宗派:臨済宗妙心寺派 
     本尊:薬師瑠璃光如来、瑠璃観世音菩薩


参道 参道
仁王門 薬師本堂
観音堂 のんのんばあの像

縁起・歴史
平安時代(894年)盲目の母を持つ麓の漁師、与一がある日、日本海から薬師如来を引き上げる。それ以来、不思議が続き、夢のお告げに従って近くの百丈が滝から飛び降りるが、けがもなく、心配してかけ寄った母の目が見開く。感じ入った与一はその如来を背負い安住の地を求めこの山にお堂を立て安置、自らも出家し補然と名乗った。
医王寺と号した寺は、当初天台宗、のちに臨済宗となる。疫病平癒祈願の寺として、尼子、毛利をはじめ歴代領主の庇護を受けつつ民衆の信仰を集めてきた。








27, 雲樹寺

主に鉄の積み出しなどで発達したという安来港へと流れ込む伯太川をさかのぼったところにこの寺はある。
ゆったりと流れる伯太川河川敷には彼岸花が美しく咲いていた。
Pと看板のある広い野原に車を止め、松並木と石灯篭が建ち並ぶ参道を進む。その中ほどには四脚門(大門)が立っている。説明板によると創建(1322年)当時のもので、鎌倉後期から室町前期の禅宗様式のもので他に類を見ないと書かれてある。なお参道を進み、左に曲がると、境内には山門、仏殿、方丈と伽藍が一直線に並ぶ禅宗様式の立派な寺院であることに驚く。山門右手にある観音堂にも仏殿にも多くの札が張り付けられ信仰の厚さが感じられる。
方丈の前には、いろんな表情の石仏が並んでいるが、この寺の本尊、拈華微笑仏にちなむのであろうか。
方丈内も、自由に入れるので、方丈背面の禅宗庭園(枯山水形式)も拝観。
寺のご住職から寺の門の配置とどこが正面であるかなど説明を受ける。しばしお話できるのもこういった旅の楽しみの一つである。今後、門にも関心を持って見ようなどと思う。

概要   創建:元亨2年(1322)  開山:孤峰覚明  宗派:臨済宗  本尊:聖観世音菩薩 


総門(四脚門) 山門(三門)
仏殿 開山堂と方丈
仏殿
 
方丈庭園と境内の石仏


縁起
元亨2年(1322) 南北朝時代の名僧、孤峰覚明禅師によって開山された臨済宗妙心寺派の名刹。
後醍醐,後村上両朝の勅願寺となり、次第に寺運も発展、当時は塔頭二十余院を含む大伽藍であった。
室町期は尼子氏の庇護、毛利元就の庇護も受けた。
江戸時代初期、伽藍の大修理、参道、庭園の整備がなされたが、文政3年には天災によって大
四脚門、山門、薬師堂以外の堂宇のほとんどを焼失した。
★寺宝、高麗堂梵鐘とともに参道の四脚門は国の重要文化財となっている。

☆メモ・・・四脚門とは,主柱2本、控柱4本(四脚柱)で構成され、壁面はない。








28, 清水寺


展望台より中海と日本海

2010年に訪れたのは晩秋の夕方だったように記憶している。精進料理店などのある駐車場から石段を登った先の大門をくぐりさらに進むと十一面観音を本尊とする根本堂を見上げる境内に至る。根本堂は600余年を経た重厚な建物である。その左手の毘沙門堂をまわりこむとその前方に三重塔がそびえる。角にある土産店で展望台への所要時間などを教えていただき、今回はそこへも足を伸ばす。10分余りの山道を行くと前方が開け、中海、弓ヶ浜と日本海、右へ目を写せば大山(この日は雲の中)まで見渡せる。
山道にはヤマホトトギスが美しく咲いている。みやげ物店まで戻ってくると、御抹茶でもどうぞとごちそうしてくださる。ここで名物の羊羹を買って、寺を後にする。
駐車場まで戻って、実はこの寺の仁王門をくぐっていなかったことに気がつき、道標に導かれてなだらかな坂道を2キロ余り登る。思った以上に遠く一汗かく。本来はそこが正門であるに違いないのだが、根本堂とはずいぶん離れたところにあるものだ。

概要  創建:用明天皇即位2年(587)  開山:尊隆上人  宗派:天台宗  本尊:十一面観世音菩薩 


根本堂 階段を支えるかのような狛犬?

仁王

三重塔 仁王門


縁起と歴史
用明天皇2年、尊隆上人によって開基され、盛時には伽藍四十八坊をする大霊場として有名になった
一時廃れたものの、大同元年(806年)平城天皇の勅旨を受け盛縁上人により復興されたとも伝えられ、承和14年(847年)には、唐からの帰路立ち寄った慈覚大師により光明真言会が創められ天台宗に帰依したともいわれている。、数回の火災と復興を経て、明徳4年(1393年)にほぼ現在の寺域が定まったが、戦国時代となる永禄天正の間、尼子・毛利の戦火にあい、根本堂以外の建物は焼失。
今の建物は毛利氏及び松平氏により復興された後、安政6年(1859年)、信徒の手により三重塔が建立された。





途中立ち寄り・・・・石見銀山・出雲市内・日御碕・宍道湖周辺・・松江・ 安来


鳥取へ










建築様式などによる寺の門の見方

ポイント

@門の柱と柱の間は一間、二間・・・・という。
A扉口を一戸、二戸・・・・という。
                    たとえば 東大寺南大門は五間三戸
B一層か、二層か
C柱の数は何本か(主柱 控柱
D二層の場合、屋根はいくつあるか、二階へ上がれるか
E門に仁王は安置されているか


・・・何間 何戸、何層の屋根か・・・・
一層 二層
柱の数は 屋根の状態は
棟門
二重屋根
二階に登れる)
三門
.
一重屋根
桜門
薬医門

(二階に登れない)
重層門
例)
東大寺南大門
四脚門
八脚門


門の呼ばれ方の例(京都の寺)
三門…知恩院、東福寺、大徳寺、南禅寺など
仁王門・・・仁和寺、清水寺、鞍馬寺、広隆寺など